弓の本当の性能差に少しだけ気づいたのが、大学卒業後十年ほどのブランク期間を経たあとだった。時間的・経済的ゆとりができてチェロを再開する目途が立ち、改めて良い楽器本体を探そうと思い立った。弦楽器ショップや工房を見てまわる中、ある工房で試奏用に出された中級クラスのフランス弓に触れたときのことだ。それまで使っていた比較的安価なドイツ弓のどれとも違う、新たな感触を得た。アトリエ・ミラン、つまりミランの工房製(親方の監督下で、多くの場合、その工房に属する複数の職人が分業制作する)の弓だった。
ほれぼれするような美しい曲線に彫り込まれた工作精度の高さ、持ったとき感じられるフランス弓独特のふんわりしたバランスに惹き込まれた。価格は、私の考える弓に支払ってよい予算額の3倍ほどだったが、衝動的にボーナス払いでの購入を決めてしまった。使い続けてみると、やわらかで歯切れのよい音がやはり素晴らしい。次第にそれまでの比較的に安価な弓との価格差が納得されてきた。
それ以来しばらくは、より高価なマスターメイド(工房の親方=マスターが独りですべてを制作する)の弓を見ても、自分の工房製のほうが性能は上だと信じていた。実際に試奏してもアトリエ・ミランを超える性能を感じることはなかった(マスターメイドのジャン・ジャック・ミランは、すでにほとんど市場に出回っていなかった…)。したがって工房製とマスターメイドの違いは、ほとんどないと思われた。
ところがそれから数年後、また新たな出会いを得る。相変わらずチェロ本体の探索を続けていた私が、銀座の楽器店で開催されたフェアに出かけた際、試奏のために借りた弓が、それまで経験したことのない感触をもっていた。粘るように腰が強く、弾き心地もふんわりとしていながら安定感がある。しかも出て来る音が、野太くてジューシーに感じられる。
その時は楽器本体の方に夢中だったので、心に残ったまま、弓の購入を考えるまでには至らなかった。しばらくして資金のめどが立ち、試奏で気に入ったリッカルド・ベルゴンツィ制作のチェロ(新作ではなく、やや年数の経ったもの)を入手しようと店を訪れたら、ちょうど、すでに売れてしまった後だった(狙っていて涙を呑んだ人は他に何人もいたことだろう)。大変がっかりした私は、しかしあの弓のことを思い出し、もう一度試奏させてもらうことにした。それまでアトリエ・ミランを超える弓はないと信じていた私だったが、そのミランの弓よりも、やはりどうも音が良いように思える。
価格は私のアトリエ・ミランのほぼ倍。ここで買ってしまって後悔することにならないか。迷っているとお店の方が、同じ制作者の弓を他店舗の在庫から取り寄せることができるので、比較してみてはどうかと提案してくれた。そこで後日、同じ価格帯の他の制作者の弓も含め、3本を比較試奏した。それでも最初に目を付けた弓が、抜きん出てすばらしい(別の作者のものはぴんと来ず、同じ作者のもう1本は、同一人物が作ったとは思えないくらい凡庸だった)。
ついに、ミランの2倍の値段のその弓、剛弓で知られるジョルジュ・テフォ作の新作フランス弓を買った。マスターメイドの弓を買った最初である。写真付きで形状説明と作者サイン入りの証明書のようなものがついてくることも新鮮だった。後で知ったが、この弓も「オールドのような音がする弓」として愛好家には評判になっていたようで、私が購入したことで涙を呑んだ人がいるらしかった。
所有した上で、工房製ミランと銘弓テフォをじっくり弾き比べてみると、音に明らかな密度の違いがあることを感じられるようになった。あれほど気に入っていたミランが、薄い、すかすかの音に聞こえてしまう。音色といえるような色ではなく淡く薄めた灰色にさえ感じられる。一方、テフォは桃の果肉のように柔らかく厚く果汁ほとばしるような響きを生む。音色は、シロップ漬けした黄桃の色だ。軽くフラジオレットを弾いただけで、ねっとりした厚い響きが感じられる。なるほど銘弓とはこういうものなのだと実感させられた。このとき以来、テフォは私の相棒として今も感動を与え続けてくれている。
おそらく、良い楽器本体と巡り合えたことも、私が良い弓の存在に気付くための大きな要因になったと思う。いくら良い弓でも楽器本体の水準が高くなければ、本体の性能がボトルネックとなってその弓本来の性能を発揮できない。その場合、弓の側のオーバースペック状態となる。だから「弓だけは最初から高価なものを買い求めるべきだ」という「格言」は、全面的には肯定しがたい。良い弓を持っていても本体が悪ければ宝の持ち腐れだからだ。結局は弓・本体双方のバランスが大切である。どちらかが突出していても、その突出しているほうの価値は発揮できにくいし実感しにくい。その時々の奏者の技術的および経済的水準に合わせて、弓も本体もそろえていくのがベストだと思える。
例えばスラー・スタカートなどの高等技術を習得するには操作の容易な上級弓が有利であることに間違いはなかろうが、どのみち性能の低い楽器本体では、力みを排したスムーズな演奏をするのが難しい。また初心者の段階から使い続けたら、せっかくの上級弓を無理な使用で痛めてしまう可能性もある。だから最初は性能上の問題のないものであれば安い弓で構わない。つまりはその時々の状況にふさわしいレベルに合わせて道具を選ぶのが一番だ。まあ、アマチュアの場合は、という限定がつくだろうけれど。